…さて、10月10日は昔の「体育の日」…から…「鯛を食う日」に進化して「鯛の日」…「……”たい”」と言えば、賢くなり”たい”、若くなり”たい”、アルプスへ行き”たい”等々…我が社の「K・T」君は、試験に受かり”たい”…と言うことで、只今、猛勉強中…
…で、私はと言うと、季節遅れの夏バテで、もう疲れた…という毎日で、…仕事を休み”たい”、休んで山に行き”たい”…そこで本を読み”たい”…んっ(ё_ё)…山?…それでは益々疲れるではないか…と、自虐的に自問自答…
…それでなくとも、つい先日の6日~7日、駒ヶ根高原でのキャンプから戻ったばかり…と言うのも、3ヶ月ほど前に、親しい友人の奥方から長野に移住したいという相談を受けて、先ずは体験移住を提案…彼女の1週間の「駒ヶ根暮らし」に併せて、様子見を兼ね、私たちは駒ヶ根高原でのキャンプ…
…いやはや、自然林に包まれたキャンプサイトの清浄な大気、初秋の風、虫の音の心地よさ…愛犬のテンションも最高潮…嗅ぐ走る跳ぶ…疲れて草原にお腹密着…
…今回のキャンプでは殆ど写真を撮ることもないまま過ごしたものの、翌朝の朝食時にタープに舞い降りた落ち葉が面白く感じたもので撮りました…まさしく影絵(-.-)
…んで、次の写真は「虫」がでんぐり返ったお腹の真ん中に「館」があって、その中には私と「何処かの女性」…後ろにトカゲのような船頭さん…違うかな~(~o~)…と、そんな穏やかな時間ばかりでもなく、小さなアクシデントも…
…そのアクシデントと言うのは、愛犬ハッピーが別のサイトのテント内に侵入し、当該家族4人の朝食タイムに割り込み…「僕にも頂戴ポーズ」…笑えるやら情けないやら…先方のご家族も嫌ではなかったのか、美男美女夫婦の笑顔と美形揃いの娘さんたちも歓迎気味…
…帰り際、「申し訳ありませんでした」とご挨拶すると、「こちらこそありがとうございました」…だと…以上、愛されキャラのハッピーでした…「A7サイト」の見知らぬファミリーさん、ありがとう<(_ _)>
…因みに私たちは、小川の側らしき、ピンク「P57」番のこじんまりしたサイトで受付やお風呂にも近く、トイレも程よい距離にありました…但し、小川と言えるような水流はありませんでしたけどね…(-_-;)…
…んで、ここのキャンプ場は日本でも屈指の規模ではないかと感じた次第…施設名は「駒ヶ根高原、アルプスの丘、駒ヶ根キャンピングリゾート」…
…と言うことで、今回のブログは私のフリータイムの1ページのみ…こんな風呂具…違った、こんなブログは初めてではなかろうか…(=_=)…いや、2回目かも?
…で、いくら何でも、自分自身の体験記だけでは内容が貧弱すぎるので、やはり月刊誌「致知」の巻頭の言葉を借りましょう…なお、巻頭の言葉は、表紙の鎌田さんの言葉ではありません…
…以下、「命をみつめて」を今月号のタイトルとする巻頭の言葉…
138億年前のビッグバンによって宇宙は誕生した、といわれる。雲霧朦朧の状態からやがて大気が冷え、地球ができたのは46億年前。その地球になぜか水が生まれ、その水の中に単細胞生命が生まれた。38億年前のことである。
それから10億年かかって単細胞生命は雌雄に分かれる。雌から雄が放出されたのである。生命はそこからマンダラの絵図を描くように多種多様に発展していき、やがて人間が誕生する。地球上の生命はすべて、その帰は一である。
天はこれらすべての生命に避けることのできない法則を与えた。それを釈迦は「この世においてどんな人にも成し遂げられない五つのこと」と明示している。
一は老いていく身でありながら老いない、ということ。
二は病む身でありながら病まない、ということ。
三は死すべき身でありながら死なない、ということ。
四は滅ぶべきものでありながら滅びない、ということ。
五は尽きるものでありながら尽きない、ということ。
この法則を細胞に染み込ませて、あらゆる生命は生きている。
〝命をみつめて生きる〟とは、この法則をみつめて生きることだともいえる。
話は飛ぶ。
…殀と寿の人生を生きた二人の人物がいる。その生涯に500もの会社の創立に関わり、91歳まで生きた渋沢栄一(1840~1931)と、…俳句短歌の世界にめざましい足跡を残し、35歳で夭折した正岡子規(1867~1902)である。
「天意夕陽を重んじ、人間晩晴を貴ぶ」
渋沢栄一が晩年、好んで揮毫した言葉である。
一日を懸命に照らし続け、西の空を茜色に染めて沈んでいく夕陽の美しさ。それは天が夕陽のような生き方を重んじている表れである。人間も年と共に人間としての佳境に入り、晩年になるほど晴れわたっていく生き方が貴い、ということである。事実、渋沢はそのように人生を生きた。
一方の正岡子規は結核を病み、35歳でその生涯を閉じた。
死の前年に書いた『墨汁一滴』に子規はこう記している。
「人の希望は初め漠然として大きく、後漸く小さく確実になるならひなり」
人の希望は初めは大きく、その後だんだんと小さくなっていくのが普通のことだ、と前置きして、子規は続ける。
…「我病牀における希望は初めより極めて小さく、遠く歩行き得ずともよし、庭の内だに歩行き得ばといひしは四、五年前の事なり。
…その後、一、二年を経て、歩行き得ずとも立つ事を得ば嬉しからん、と思ひしだに、余りに小さき望かなと人にも言ひて笑ひしが、一昨年の夏よりは、立つ事は望まず坐るばかりは病の神も許されたきものぞ、などかこつほどになりぬ」
自分の病床における希望は最初から極めて小さく、4、5年前は庭の中だけでも歩きたいと願っていたが、その後は歩けなくても立ちたい、立てなくとも坐りたいと希望は小さくなっていった。しかも希望の縮小はなおも続き、「坐る事はともあれ、せめては一時間なりとも苦痛なく安らかに伏し得ば如何に嬉しからんとは、きのふ今日の我希望なり」と子規は記し、最後をこう結ぶ。
「最早、我望もこの上は小さくなり得ぬほどの極度にまで達したり。この次の時期は希望の零となる時期なり。希望の零となる時期、釈迦はこれを涅槃といひ、耶蘇はこれを救ひとやいふらん」
病床の子規の苦しみ、辛さが迫ってくる文章である。
この一文を読んで思うことが二つある。
一は、人はどのような状況にあっても、希望を捨てない生き物である、ということ。いや、希望がなくては生きられない生き物である、ということ。
もう一つは、人はどのような環境にあっても、運命を呪ったり、愚痴を並べたり、不平不満をいったりせず、精いっぱい、全力で生きよ、それが尊い──子規の生き方はそのことを鮮明に教えてくれている。
…と、まあ、相変わらず含蓄(がんちく)に満ちた問いかけです…
…と言うことで、私の一日が始まります(=_=)<(_ _)>
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