…只今現在は、山さんブログ-その86が公開される7月11日の前日、7月10日です…本日は我が社の定休日…遠出するには時間が足りませんので、時々出かける修善寺の奥座敷…「東府や」へドライブ…山の緑や小川のせせらぎ…補聴器の助けを借りて、遠慮気味に滝音を響かせる清流に耳を傾けて参りました…
…自宅のマンションからは約1時間ばかり…すっと行って、ずっと居たくなるお気に入りです…で、今回はこの道中をつぶさに綴るつもりでした…が、跳びに飛んでいた「二宮尊徳(金次郎)」の「その後」を貼り付けましょう…、
…やはりと言いますか、自らの生き方と比較すると、…はて、私は(-_-;)…と、長くもあり、短くもある人生を考えないわけにまいりません…
● これまでのあらすじ
幼くして父母を亡くした金次郎であったが、こつこつ小さい努力を積み上げていく「積小為大」に開眼。かつて手放した田畑を請け戻して生家を再興。小田原藩の家老職である服部家の若党として出仕し、子弟の勉強を見たほか、家中で「五常講」を始めるなど、溢れる才能を発揮し始めるのであった。
…金次郎は文化2(1805)年、満18歳の時、二宮総本家再興を期してある布石を打っていた。
…目を付けたのが、総本家が田畑すべてを売り払った後にぽつんと残っていた稲荷社だ。荒れ地となっていたそこを垣根で囲い、竹林を育て始めた。
…4年後の文化6(1809)年、生い茂ったところで伐採して売却すると4朱70文を得た。これに金次郎は自分の金を11朱180文足して1両(現在価値にして30万円)とし、総本家復活の基金としたのだ。
…報徳思想の根幹が「分度」と「推譲」であることは既に触れた。収入より少なく支出を見積もって「分度」を設定し、倹約によって「分度」を守れば余剰を生じる。
…この余剰を自分のために譲り、あるいは社会のために譲るのが「推譲」である。前者を「自譲」、後者を「他譲」と呼ぶ。「自譲」はすなわち貯蓄や投資であり、これまで彼が実践してきたことだ。
…二宮金次郎の人生は、何ものかを人に与え(譲り)続けた人生だった。彼は自分の知恵を、お金を、人に与え(譲り)続けた。
…そして「他譲」に関して言えば、二宮総本家再興の基金として自己資金を拠出したのが、はっきりとした形をとったという意味で記念すべき第一歩だった。
…彼はこの一両を年利1割5分(15%)で貸し付けて複利で回すことを企図した。遠大な計画だが複利運用の力は大きい。
…そのうち他の一族の者も、収穫米の一部を「推譲」してくれるようになった。
…結局、50年の歳月を要したが、「一族共同での法事」「一族の子弟の出精人表彰制度」を実現し、嘉永7(1854)年、彼は見事二宮総本家再興を果たすのである。
…その5年前の嘉永2(1849)年、彼は善栄寺に、二宮家の墓碑を建てている。
…その正面には二段にわたって10人の戒名が彫られており、上段は右から総本家初代の伊右衛門夫妻、最後に窮死した9代儀兵衛、3代万兵衛夫妻、下段は右から祖父銀右衛門、伯父である4代万兵衛夫妻、そして父母の順となっている。
…総本家や万兵衛家の戒名を加えることで、祖先への感謝の気持ちを形で示したのだ。
…〈事の成否は、恩を忘れないか恩を忘れるかにかかっている。前に受けた恩を忘れず、これに報いようと心掛けるものは、する事が必ず成功する。前の恩を忘れて、これからの恩徳をむさぼり取ろうとするものは、する事が必ず失敗する。だから成功と失敗の分れ目は、恩を忘れないか恩を忘れるかにあるのだ。
(中略)
…報徳の心を持ち続ける者は、必ずその家を富ます。報徳を忘れる者は、きっと貧困を免れない。これは理の必然である。人が食事をするには、毎日なべかまや皿、茶わんを用いるが、食べ終ってこれを洗うのは、そのつぎまた使うためだろう〉(『二宮先生語録』斎藤高行原著・佐々井典比古訳注)
…(-.-)…ここで私「山さん」は唸ってしまうのです…自らの所業と現在の結果には大いに思い当たる節がありますからね…(-_-;)
…金次郎に財政再建策を立案してもらった服部家だったが、彼らは結局、自分たちの力ではそれを実行に移すことはできなかった。
…そのため文化14(1817)年には、借財は214両(6,420万円)に達した。
…「もう一度戻ってもらえぬか」
…金次郎の元に、二度三度と当主の十郎兵衛から督促が来た。
…新婚の金次郎にとっては迷惑な話である。再建には少なくとも5年はかかる。それは以前、彼が作成した「御家政御取直趣法帳」が5年半の計画書であったことでもわかる。その間、金次郎は住み込みでこれにかかりっきりとなるのだ。
…だが責任感の強い金次郎は、
(ここは乗りかかった船、後には引けない)
と引き受けることにした。
…現代人の感覚からすれば、妻「きの」の気持ちをもっと考えてやるべきだったのだろうが、この時の金次郎は妻を自分と一心同体の存在だと考えており、自己犠牲を彼女にも強いた。
…そのことを後に、彼は激しく後悔することとなる。
…こうして文化15・文政元(1818)年3月、再び金次郎は服部家に住み込んで財政再建計画を実行に移すこととなる。服部家の若党になった日から6年の歳月が過ぎていた。
…「向こう5年間、私の申し上げることに従っていただくということでよろしいですね」
…「もちろんじゃ。林蔵(金次郎)に全てを委ねよう」
…「まずはお着物からして、内向きは木綿にしていただきます」
「わ……わかった」
…こうして主人の言質を取った上で、使用人たちを全員呼び集めた。
…「この度、ご主人様は私に服部家の借財返済を任せて下さるとおっしゃった。皆にも私の指図に従っていただかねばならんが、なかなか厳しい道が待っている。もし異存があるなら今のうちに暇を取っていただきたい」
…五常講で金次郎の信用はすでに高い。彼らに文句があろうはずもなかった。
…「みんなありがとう。ではさっそく今から鍋炭を落としてもらいます」
(えっ?)
…金次郎はまず、彼らができる身近なことから始めさせたのだ。その一つが、鍋底についた炭を削らせることだった。そうすることにより、飯炊きの際に火の通りが良くなり、薪の節約になる。
…加えて炊き方は「報徳飯の焚方」を伝授した。
…薪三本で鍋の底に三方から火が当たるようにする。間が空いているから酸素が通い、薪が完全燃焼しやすい。なおかつ、消し炭の火力も無駄にしない。そして炊き終わった後は再び釜の底の鍋炭を落とし、鍋の底はいつもピカピカにしておく。
…削った鍋炭さえムダにしない。一合たまるとそれを買い上げた。こうした工夫により米を炊く薪が一定量より少なくて済んだときには、残った薪を買い取った。
…また日用品の油やおしろいなどを出入りの商人から各自で買うのを禁じ、一括して購入することにした。一括なら安く買える。代金との差額は各人別に貯金してやった。
…後年、ある女中が親の病気で国元に帰る際、相当の心付けとその貯金を渡して感激されたという。
…「食事は一汁一菜とする。これはもちろん私も同じだ。例外は認めない」
…服部家の奉公人たちには節約意識の徹底が図られた。
…だが皮肉にも、そこまでしても服部家の借財は減らなかった。
…初年度こそ多少減ったが次年度からかえって増加し、3年目の文政3年末には合計368両余に借金は増えていた。十郎兵衛が家老を拝命して初の江戸詰となったため、多額の出費を要したことも背景にあったが、焦った金次郎が大きな失敗をしていたのだ。
…それは米相場だった。
…米問屋の武松屋と仲良くなり、米の売買の委託をしていたことについては第四回で述べた。
…米相場にも強い関心を持っていた彼は、満21歳であった文化5(1808)年から、日記に年末の10両換算の米価を記録し始めている。
文化5年 19俵
文化6年 28俵7分
文化7年 27俵2分
文化8年 26俵
文化9年 25俵7分
文化10年 32俵
文化11年 23俵2分
文化12年 29俵
文化13年 27俵3分
文化14年 21俵2分5厘
文化15年(文政元年)25俵
文政2年 30俵7分
文政3年初 33俵
…ここで彼は気がついたのだ。文政2(1819)年、米価は3年連続で大きく下落し、文政3(1820)年に入っても下落傾向を示している。さすがに底を打って上昇する確率が高い。
…金次郎はこれに賭けようとした。自分の金儲けのためではない。服部家の借金返済のためにである。
…文政3年、彼は1636俵もの米を売買した。
…だが金次郎の予想ははずれた。購入時には10両32俵前後であったのが、売却時には37、8俵になってしまっていた。3年前が25俵、4年前が21俵であることを考えると、考えられない下落幅だ。だが結果は結果として受け止めねばならない。損失と利息支払いで約100両もの赤字を計上することとなった。
…金次郎が面目をなくし、落胆した様子は想像するに難くない。
…やむなく金次郎は、両替商を相手に借金の金利の減免についての交渉を始めた。高金利のものについては5年割賦を確約する代わり利子を引き下げてもらった。なかなか話がまとまらないものについては、小田原藩から低利の借り換えをするようお願いして何とかしのいだ。
…獅子奮迅の働きをしていた金次郎だが、私生活では逆に悲劇が訪れていた。
…夫が不在で寂しい思いをすることが多かった「きの」だが、やがて身ごもったことがわかり、さすがに子どもができたら家庭を顧みてくれるだろうと一縷の望みを繋げていた。
…文政2(1819)年1月18日の早朝、長男徳太郎が誕生する。徳の字を付けていることから、彼がすでに報徳の精神を強く意識していたことがわかる。
…跡取り息子の誕生を金次郎も大いに喜んだ。
…ところが、である。徳太郎は生まれた翌月の2月2日、早くも幼い命を散らしてしまうのだ。
…乳幼児死亡率の高かった当時のこと、こうしたことは珍しくなかったが、このことはきのを絶望のどん底に叩き落とした。怒りや恨みの矛先は、家のことをないがしろにしている金次郎に向かった。
…もう無理だと心折れてしまった「きの」は、「私は二宮家の家風にはあいません。どうぞ離縁にしてください」と申し出てきた。
(なんと私は、自分の足下が見えていなかったのか……)
…金次郎は生涯でこれほど反省したことはなかった。考えてみれば結婚以来、服の一枚も新調してやったことがない。
…「せめて畑に綿を蒔いて、秋にその綿でほしいものを織って実家に持ち帰りなさい」
『報徳記』によれば、金次郎は「きの」にそう言ったという。
…金次郎はここまで来てもまだ気づいていなかったのだ。自分の考え方が常人とは違うことを。おそらく、きのはこの言葉にさらに絶望したに違いない。
…手元の金で服を買って持たせてやるというのならいざ知らず、自分で綿を作って収穫して糸に紡ぎ、さらにそれを織って持って帰れと、さも恩情をかけているかのごとくに語るこの男に、自分は絶対についていけないと確信した。
…金次郎の慰留を振り切って、きのは逃げ帰るように実家に戻っていった。文政2年3月のことであった。金次郎は親しい友人を通じて五両の金を慰労金として贈った。
…再び築けたかに思った家庭が、わずか2ヵ月で崩壊してしまったのである。
(すべては私の責任だ)
…金次郎はしばらく放心状態となってしまった。
一方で、もう一人責任を深く感じている者がいた。ほかならぬ服部十郎兵衛である。金次郎の多忙の原因を作ったのは自分だからだ。
(こうした場合は、すぐ後妻をとるに限る)
…十郎兵衛は服部家の奥女中であった岡田波(奉公中の女中名は歌、当時数え16歳)を紹介してくれた。
…栢山村の隣村である足柄下郡飯泉村の組頭岡田峯右衛門(弥吉)の娘で、しっかり者として知られていた。金次郎より18歳年下である。きのとの時以上に年齢が離れているが、十郎兵衛の気遣いに感謝し、この縁談を受けることにした。
…文政3(1820)年3月27日に結納を結び、4月2日、祝言を挙げた。
…雨降って地固まるということはままある。以前よりお互い知らぬ仲ではなかったことも功を奏し、夫婦仲はことのほか良好だった。男女2人の子に恵まれ、波はその後もしっかりと金次郎を支えていく。
…金次郎がかつて観音堂で祈った勝福寺には、現在「二宮尊徳夫人生誕の地」の顕彰碑が建てられ、賢夫人として知られた波の遺徳を今に伝えている。
…「きの」と離縁する前年の文政元(1818)年、金次郎は小田原藩主「大久保忠真」から表彰を受けている。
…ここで金次郎の人生に大きな影響を与えた「大久保忠真」について触れておきたい。
…現在の小田原では、北条は知っていても大久保という藩主がいたことなど知らない住民が多い。小田原城に行っても、北条の家紋であるミツウロコの旗は翻っているが、大久保家の那須藤の家紋など見たことがない。
…だが小田原藩11万3000石を治めた大久保家は、家康の重臣だった初代藩主忠隣以来、何人もの老中を輩出した譜代の名家であった。
…金次郎より6歳年上の忠真は、寛政8(1796)年に家督を継ぎ、第9代藩主となっている。
…享和4(1804)年に寺社奉行に就任すると、その後、大坂城代、京都所司代と譜代大名のエリートコースを驀進し、文政元年8月2日、松平定信の推挙により、ついに老中に就任。
…以来、天保8(1837)年に没するまで、19年もの長きにわたり老中の職にあり、最後の2年は現在の総理大臣に匹敵する老中首座であった。老中首座に上り詰めたのは歴代大久保家当主でも第3代忠朝と忠真だけである。
…酒匂川での表彰は、老中就任のため江戸に向かう途中の出来事であった。
…文政元年11月、「大久保忠真」は、酒匂川の河原に、孝子(親孝行な者)1名、出精奇特人(ことのほかよく働いた者)12名を集めて表彰を行った。
…その出精奇特人の筆頭が金次郎であった。選出する関係者に二宮一族の者が加わっており、生家の復興などが評価された結果だった。
…「酒匂川表彰の図」という、この時の情景を描いた絵が残されている。貴人「大久保忠真」は顔を見せない。駕籠の中から忠真がねぎらいの言葉を述べ、一同はその前にずらりと並んで平伏している。
…この時、忠真は金次郎にこう語りかけたという。
…「そなたはかねがね農業に精出し、心がけがよいと聞いた。近頃惰弱な風俗の中にあって奇特なことであり褒めてつかわす。いよいよ励むように」
…金次郎はこの時の高揚感を終生忘れなかった。その記憶が後の農村復興事業において、積極的に表彰制度を導入していくきっかけとなった。
(自分が藩主様であったなら、農民を表彰するというようなことを思いついただろうか?)
金次郎はそう考えた。
…金次郎の終生変わらぬ姿勢として、いつも為政者が国なり藩なりを治める困難さに思いを致し、深い敬意を抱き続けていた点が挙げられる。不平不満ばかり言わず、まずは相手の立場に立って考える姿勢を忘れなかった。
…彼が晩年に書いた『尊徳教説』には、神代から徳川家にいたる為政者の恩を思うべきだと説かれている。治める者と治められる者、互いに対する敬意があってこそ社会は繁栄することに金次郎は早くから気づいていたのだ。
…一方の忠真にとっても、酒匂川での顕彰は終生忘れ得ぬ思い出であったようだ。
…忠真は大坂城代になったとき、自戒の歌を詠んだ。
──位山 のぼりて見れば いと高し いや忘れめや もとの心を
そして老中になって詠んだ歌が次のものである。
──身にかえて とわにぞ思う万民 所を得つつ 富み栄えねと
…この歌には「かくは詠みたれど、よろずまつりごとの道に違えること、いと多かるべしと、恥ずかしきことにこそ」と後書きが記してあった。
…金次郎は実に良き藩主を戴いていたと言えるだろう。この名君、大久保忠真が金次郎を世に出してくれることとなるのである。
…酒匂川河原での表彰には後日談がある。
…2年後の文政3(1820)年、藩主大久保忠真は表彰した人々に建議を求めたのだ。
…当時、金次郎は服部家の仕法に取り組んでいたが、求めに応じて二つの献策を行った。
①一つは年貢米を貢納する際の枡の規格統一である。
…小田原領では枡の種類が18種もあり、そのため1俵の容量が4斗1升から4斗3升まであった。これでは同一領内で年貢に不公平が出るし、小作料の収納の際にも米の売買取引でも不都合が生じてしまう。
②もう一つは藩からの低利資金融資制度の導入である。服部家で行っていた五常講を藩レベルに拡大しようというわけである。
…「信をもって借用し、信をもって返済すれば、困窮を救うことができます。まず藩士の負債額を調べ、収入と比較してそれぞれの分度を立てさせます。その上で藩からの下賜金に加え、領内の富裕な者から出資金を募り、これを藩士に低利で貸し与えるのです」
…この2つの建議は、2つとも採用された。
…ところが、この時代らしい残念な真実があった。献策したのは金次郎のみだったのだ。
…みな農民の身で藩主に対して提言するなど畏れ多いと考えたのだ。建言しなかったからと言って罰せられるわけではない。逆に、藩士に不利なことを献策して恨みを買ったらどんな仕返しをされるかわからない。触らぬ神に祟りなしというのが〝世知に長けた〟〝世渡りのうまい〟者の共通した思いだったのである。
…このことを見てもわかるように、金次郎の思考と行動は、当時の庶民としては規格外であった。彼は、社会がよくなるのなら自分が損をすることを顧みない。まさに〝乃公出でずんば(自分がやらねば)〟という義侠心が彼を突き動かしていたのである。
…金次郎は建具職人に依頼して、4斗1升入りの改正枡を作り提出した。
…褒美として翌年の年貢米を2俵免除されている。現在価値にして24万円ほどであろうか。たいした金額ではない。
…彼の義侠心への見返りは、いつも割に合わないものであった。
作家 北 康利(きた・やすとし)
昭和35年愛知県生まれ。東京大学法学部卒業後、富士銀行入行。富士証券投資戦略部長、みずほ証券業務企画部長等を歴任。平成20年みずほ証券を退職し、本格的に作家活動に入る。『白洲次郎 占領を背負った男』(講談社)で第14回山本七平賞受賞。著書に『思い邪なし京セラ創業者稲盛和夫』(毎日新聞出版)など多数。近著に『ブラジャーで天下をとった男 ワコール創業者 塚本幸一』(プレジデント社)がある。
連載 二宮尊徳 悔いの残る失敗
…と言うことで今回はここまで…いやはや、自分の言いたいことを抑えてブログを終えるのも、なかなかに苦痛の伴うものです…何と申しましても私は「一言居士」…言いたくて言いたくて仕方ないのですからね…
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