…今回のブログ本編に入る前に、珠玉の物語をご紹介しましょう…
…この実話で涙しない者は、私が泣き目に遭わせてやる…ナンチャッテね(^^)/~~~
…国民教育の師父と評価される森信三(故人:日本を代表する思想家であり教育者でした、現在でも、この方の名前を知らない教育者はいないと思います…by山さん)さんに…「超凡破格の教育者」と称された、徳永康起(故人)さん。
…貧しい生徒、悪事を犯した生徒にも分け隔てなく接する徳永さんの言動には、「人を育てる極意」が詰まっていると言われました…
…徳永さんから複写ハガキを教わったという「ハガキ道」伝道者・坂田道信さんが「伝説の教育者」の人となりを表すエピソードを語っています…
〈坂田〉:ある日の工作の時間に…「先生、買ったばかりのナイフがなくなりました」と1人の子が騒ぎ出したことがありました。徳永先生が生徒全員を校庭に出して教室内を調べると、ナイフはある男の子の机の中にありました。
…その子は、いつも家で出来のいいお兄さんと比べられて叱られていたんだそうです…。
…だから、親にナイフを買ってほしいと言えなくて、他の子のナイフを盗んだんです…。
…その子の気持ちがよく分かっていた徳永先生は、直ぐに裏門から文房具屋に行って、なくなったナイフと同じものを買ってきて、盗られた男の子の机の中に入れました。
…そして皆を教室に戻すと、盗られた子は「先生、ありました」と喜んだ。
…徳永先生は、盗った子には一言も注意しませんでした。
…その子は目に涙を溜めて徳永先生を見ていたと書かれています。
…やがて太平洋戦争が始まり、その子は特攻隊として出撃することになりました。
…明日は出撃という時、ほとんどの隊員は両親に宛てて遺書を書くけれども、その子は徳永先生宛に遺書を書いたそうです。
その子の遺書:「先生はあの時、僕をかばって許してくださいました。本当にありがとうございまし た…先生、僕のような子供がいたら、どうぞ助けてやってください。本当にありがとうございました。さようなら」…
そして少年はニューギニアの空に散りました。
徳永先生はこう書いておられます。
「涙というのは下を向いて流すものだと思っていたが、上を向いても涙が流れるのを知った。
これほどありがたいことはない」…と。
…徳永先生は、2万3,000通のハガキを書いて昭和54年に67歳で亡くなりました。その1枚を貼り付けましょう…
…その2万3,000通のハガキは、森信三さんのお弟子さんである、寺田一清さんによって、『徳永康起遺文集』という本にまとめられました。…名著です…
…森信三さんは、明治に教育法が制定されて以来、最高の教師が「徳永康起先生」だとおっしゃっていました。
…寺田さん曰(いわ)く…私(寺田一清)はその徳永先生に複写ハガキを教えてもろうたんだよなぁ。とつぶやいてこの物語は終わります…
(^^)/~~~
…そして…私が愛読する月刊誌「致知」の記事は、今月号も優れものばかり…いやはや、まったく…よくぞここまで立派な「こころざし」に根ざした生き方が出来るものだ…と、唯々、感歎するばかりです…ですから、自分の体験や小話を書き綴るより、「致知」からの記事を引用した方が余程価値あるブログになります…
…で、今回は、誰でもが親近感を持てそうな生き方をしながら、背骨がシャンとした市井の人々を取り上げた記事がありますので、転記します…
…77ページから始まる「致知随想」というジャンルからの引っ張りです…
…ひとりめのターゲットは、たい焼き処 「分福屋 厚之助」 店主の「橋本淳也」さんです…
…タイトルは、「今まで食べたたい焼きの中で一番美味しい」…です(^o^)
…お客様の喜ぶ顔を見る度に、店主の私は内心「そりゃそうでしょう」とほくそ笑みます。
…だって自分が世界一と言い切れるたい焼きをお出ししているんだから。
…否、そう言い切れるものをお出ししなければ、わざわざうちにお越しくださるお客様に失礼だと私は考えます。
…私が営む「たい焼き処 分福屋厚之助」は、埼玉県行田市という地方の、決して便利とはいえない場所にあります。
…それでも地元はもとより市外、県外からもたくさんのお客様が来店され、田舎では異例の1日200匹ものたい焼きが売れることもあります。
…そんなお客様のために当店では、1番と確信できる材料を厳選して、常に焼きたてをご提供することにこだわっています。
…食べた瞬間に「うまい!」と感動していただけなければ次はない。そう考えて1回1回、真剣勝負でお客様をお迎えしているのです。
…おかげさまで、開業半年で消えていくお店が大半な中、たい焼きには縁もゆかりもなかった私がこの商売を始めてもう12年目になります。
…大切なことは、その店にどういう人間がいるか。私の大好きな致知出版社の本から学んだ人間学の重要性をますます実感する今日この頃です。
…とはいえ、私は元々秀でた能力もなく、組織にも馴染めない人間でした。
…最初は母親の伝で印刷会社に就職し、グラフィックデザインの仕事をしていましたが、もっと別の世界を見てみたいと考えたのが運の尽き。
…27歳でその会社を辞めてからはどこへ行っても馴染めず、転職を重ねること20回以上。
…もうこの世には自分の生きていける場所などないのではないか、と絶望していました。
…それでも何とか食べていくために応募したのが、近所のショッピングモールで営業するたい焼き屋のアルバイトでした。
…あいにく連絡をした時には既に採用は締め切り。他を当たらなければと考えていたところへ「やっぱりあなたを採用することにした」とオーナーさんから電話がありました。
…いったいどこを見込んでくださったのか、先に採用した人を断った上で、何の経験もない私を店長にしてくださるというのです。34歳の時でした。
…私は新米店長として、高校生アルバイトの〝先輩〟にたい焼きのつくり方、レジの打ち方、接客の仕方を一から教わりながら懸命に働きました。
…そうして1年経った頃、オーナーさんから「私も年だからもうこの店を手放そうと思う。君、あとを引き継がないか?」と、思いがけないお話をいただいたのです。
…改めて振り返ってみると、それまでどの会社にも馴染めなかった自分が、同じ仕事を1年も続けられたのは稀有なことであり、他に生きる場所のない身には願ってもない申し出でした。
「私でよろしければ、やらせていただきます」
…たい焼きに縁もゆかりもなかった自分が、彷徨い続けて流れ着いたたい焼き屋。運命としか言いようのない出逢いでした。
…新たに掲げたお店の看板には、お客様に福をお分けするという思いを込めた「分福」の文字と、お世話になった前オーナーの「厚之助」というお名前を冠しました。2013年、36歳の時です。
…しかし、オーナーとして人を雇い商売を続けていくことは簡単ではありません。
…素人の自分でもこのお店を維持していける、本質的な秘訣はないだろうか。厳しい現実の中で模索し、辿り着いた結論はただ一点、自分に関わるすべての人を喜ばせることでした。
…私は、まず一緒に働いてくれるアルバイトさんに喜んでもらうために、控え室に常におやつや飲み物を用意しておくと共に、お客様が多く大変だった時には些少ながらポケットマネーを振る舞い労をねぎらいました。
そしてお客様に喜んでもらうために、自分たちがやることはたい焼きを売ることではなく、お客様を喜ばせることだという考えを皆で徹底して共有しました。
…例えば、ショッピングモール内で目的のお店が見つからず困っている方を見かけたら、営業を中断してご案内しました。
…店頭では余ったたい焼きの生地でつくった煎餅を積んでおき、無料で食べていただきました。
…さらに仕入れ先にも喜んでもらうために、材料の値上げにも決して嫌な顔をせず取り引きを続けて信頼を得ました。
…いずれも採算を考えずにやったことですが、そのうちお店が明るい笑い声で包まれるようになり、じわりじわりと売り上げも上がっていったのです。
”喜びを与えれば、喜びが返ってくる”。
…このことを確信した私は、ショッピングモールの閉店に伴い、5年前から自宅で営業する現在の店舗に移ってからもこの「喜ばせ道」を貫いています。
…この商売は毎年夏の売り上げが伸び悩み、今年(2024年)はもう駄目かもしれないと思うこともあります。それでも何とか踏み止まっているのは、どこにも居場所のなかった自分が巡り合ったこのたい焼き屋こそは、天に与えられた己の天職。ならば全身全霊で取り組もうという覚悟があるからです。
…すべてはこの覚悟から始まる。
…きょうまでたい焼き屋を営んできて得た実感を元に、私はこれからも自分に関わるすべての人を喜ばせる「喜ばせ道」を歩んでいきたいと願っています。…おわり…
…と、まあ、何気ない言葉の数々に、写真の笑顔と同じ程の温かみが感じられます…
…もとより、私に欠ける要素…
…学ばなければ…と、思いつつ願いつつ、今日の仕事も頑張りま~す。<(_ _)>
…で、もう一人…
…(株)吉村社長、橋本久美子さん…苦しさはいつか喜びを倍にする…というタイトルから…
…思いがけず社長になることを知らされたのは、取締役会前日のことでした。
…1932年創業、東京都品川区戸越に本社を置き、日本茶の包装材の製造、茶関連の菓子や雑貨の販売を行う当社吉村。茶業界では、大手企業から地域の茶屋、茶農家まで、全国8,000を超える取引先にご愛顧いただいています。
…1959年、2代目社長である父の長女として生まれた私は、新卒で当社に入社。
…出産を機に一度は退職しましたが、1998年に復職。冒頭の出来事は、取締役経営企画室長として働いていた2005年のことでした。
…当時はペットボトルの台頭や、スーパーマーケットのプライベートブランド戦略への移行が重なり、お茶の価格競争が激化していた時期でした。
…包装材も低価格のものが主流となり、53億円あった売り上げは6年間で約8億円減少。再起を図り、私と義理の弟に経営が託されたのです。
…新卒から入社したとはいえ、当然義理の弟が社長になるものだと考えていました。
…私以上に驚いたのは社員のほうでしょう。
…本社で社長就任を告げると、突然泣き出す社員。
…さらに、「女の下で働くなんて、恥ずかしくて親戚に言えない」との言葉を浴びるなど、惨憺たるスタートとなりました。
…ワンマンだった父とは対照的で、経営のいろはも知らぬ私にできることといえば、社員の声を聴くこと。また、自宅に届いたお歳暮も必ず会社へ持っていき社員と分け合うなど、小さなことをコツコツと取り組んでいきました。
…ようやく社員と打ち解けてきたと、手応えを感じ始めた頃でした。
…当時実施したES(従業員満足度)の調査結果に記されていたのは、「リーダーシップがない」「給料を上げろ」といった私への批判。
…中には、「酷いことが書かれていたら、なかったことにするのだろう? お手並み拝見だ」という記述さえありました。ここで逃げたら終わり……。かといってどうしたらよいかも分からない。完全に行く先を見失ってしまいました。
…”自分の目指すべき経営”とは─転機となったのは、東京中小企業家同友会のワークショップでした。
…「1つのオレンジを2人でWin-Winとなるように分けるにはどうしたらよいか」という話し合いの中で、「オレンジの種を植え育て、鈴生りのオレンジを山分けする」という意見に衝撃を受けました。
…”二者でどう取り合うかという視点しか持たなかった私”は、互いに協力して育て、その上で分け合うという視点に、自らの目指すべき経営像を見たのです。
…早速、当時4か所あったすべての営業所を回り、同様のワークショップを実施。同時に、経営者がつくる人、社員が使う人という相対する関係ではなく、会社の仕組みを共につくっていきたいと、素直に打ち明けました。
…ワーク後のアンケートで社内制度の改革を主導する社員を募ると、数名が手を挙げてくれました。
…福利厚生と評価制度に関する2つのプロジェクトが立ち上がると、他の社員も次々とプロジェクトに協力。
…経営者が強引に引っ張るのではなく、社員のしたいことに対して共感する。
…すると組織はものすごい力を発揮することを実感したのです。
…社長就任から6年目、18億円の借り入れをし、新工場建設に着手した直後のことです。
…2011年の東日本大震災に伴い、静岡茶から放射性セシウムが検出され、お茶やその周辺の商品が売れなくなるという危機に見舞われました。
…注文が激減したにも拘らず、商品の誤発送や事務の入力ミスゼロなど、期初の目標を達成すればよいという社員の意識に愕然としました。
…社員にも会社の経営状態を自分事として捉えてほしいと考えた私は、経常利益の4分の1を社員に還元する仕組みを導入。
…すると業績の経過や世の中の動向を気にする社員が増え始め、以降は現場から次々と提案が生まれるようになりました。現在売り上げは父の時代を上回る54億円を記録しています。
…国文科卒で経営学も知らない、専業主婦歴が長い、リーダーシップがない──社長就任時は、コンプレックスの塊だった私。…当時はES調査の結果に傷ついたこともありましたが、力のある父の時代であれば、きっと社員も心の内を素直に吐露することができなかったのも確かです。
…父のような牽引力がなくとも、いまの吉村は、社員一人ひとりが主体性を持って会社を支える組織に成長しました。そう考えると、すべての境遇や経験が今日の経営に繋がっていることを強く実感します。
…私と同じように、社員にもこの会社で、自分自身や過去の境遇に価値を見出せたと、心から思えるような体験をしてもらいたいと願っています。
…父は亡くなる時、社史を残していきました。
…私は社史に記録されることのない「社員の歴史」を残したいと思い、定年を迎えた社員を自ら取材し、吉村での歩みを辿る冊子を五年ごとに発行してきました。
…良い時だけでなく、辛く苦しい時を経て定年に辿り着いた社員たちの言葉は、楽ばかりの人生では得られない、喜びに溢れています。
…苦しさはいつか喜びを倍にする。
…良い時も苦しい時も越えて、社員一人ひとりの最後の会社になりたいというのが私の経営者としての願いです。…おわり(^o^)…
…謙虚で、力強い言葉が踊っています…随所でうなされました…
(^^)/~~~、で、この「致知」に展開される人々の生き方から学ぶ「勉強会」を立ち上げたいと願う私の指をつかんで戴ける方は居ないものでしょうか…ご連絡をお待ちしています…<(_ _)>
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