…今日もまた あれよあれよと 言う間さえ 押しのけてきた ブログ当番…
…気が付けば 明日に控えた ブログの日 ネタも無ければ やる気もおきず…
…さてもさて 何を書いても 気に入らぬ こんな私を 誰が知るやら…
…気休めに 広告欄に 目をやれば 佐藤愛子の 破顔一笑…
…前作では、「90歳の 何がめでたい」…(-_-;) と、開き直っていましたね…いやはや、大したものです…
…で、最近の著書は…「98歳、戦いやまず日は暮れず」…だったかな(-.-)
…まっこと、世の中には凄い人が居るものです…このような人を達人というのでしょうね…どなたか、佐藤愛子さんの爪の垢を入手していただけないでしょうか…
…そんな私の今回ブログでは、「二宮金次郎」の続きを”転載”するもりでしたが、今宵の私めは、前回ブロク当番日と同様にバテバテ模様…
…(-.-)ところが、都合の良いことに、このブログを書いている本日6月10日から、月刊誌「致知」の電子版も追加購入することになりましたから、過去の出版号もぜ~んぶ電子版で読めるのです…と言うことですから、前々回ブログで掲載部分を含めて、二宮金次郎の連載部分を貼り付けます…イキマスヨ~<(_ _)>
金次郎は、朝は暗いうちから早起きして田畑の世話をし、夜は草鞋作りをして一家4人の生計を支えようとした。だが父利右衛門のいなくなった穴を埋めるには至らない。
そのうち食べるものにも事欠きがちになっていった。
利右衛門が亡くなって3ヵ月ほどが過ぎ、享和元(1801)年の正月がやってきた。年始には神楽が家々をまわることになっている。
その年も神楽の笛の音が近くまでやってきた。
「神楽が来たけど、一体どうすればいいのやら……」
「母よし」はもう弱り切っている。家中探してもびた1文ないからだ。
100文出すと神楽を舞うが、舞わせたくなければ12文を渡して帰ってもらう決まりだ。それが神社の維持費にもなっていた。明治になって政府が一町村一社の方針を出したことにより栢山神社に統合されたが、金次郎の頃の東栢山には八乙女権現社、白髭社、稲荷社の3社があった。
前回述べたように、1両30万円換算だと、1両は4000文だから12文だと900円ほどになる。だが当時の蕎麦は「二八蕎麦」といって1杯16文が相場だったから、おそらく12文というのは400~500円くらいの感覚だったはずだ。
「わずか12文がないとは誰も信じてくれますまい。みな田に出かけて1人も家にいないふりをしてやりすごしましょう」
金次郎はそう言うと、しっかりと戸を閉じて息をひそめた。
間もなく神楽が来て戸口の外でお祝いの言葉を口にしたが、返事をせずにいると、そのうち笛の音は遠ざかっていった。
彼らはもう命をつなぐのがやっとの有様だったのである。
この翌年(享和2年)3月24日、よしの父川久保太兵衛がこの世を去った。
よしは子どもたちを連れて川久保家へと向かったが、彼らの着物があまりにもみすぼらしいことに驚いた親戚たちから、
「あんたたちは葬式に出ないでおくれ!」
と言い渡された。
惨めなことこの上ない。愛する父親の葬式にも出られないなどということがあっていいものか。よしは泣く泣く帰宅したが、よほどこたえたのだろう。葬式から帰るとどっと床についた。
「おっかさん、頼むから食べてください」
なけなしの米をかゆにして口元に持っていっても食べてくれない。完全に生きる気力を失ってしまっていたのだ。
金次郎たちの看病もむなしく10日ほどで息を引き取った。享和2(1802)年4月4日、満34歳の若さだった。金次郎14歳、友吉11歳、富次郎2歳の時のことである。
1年半ほどの間に父に続いて母までなくしてしまったのだ。しかも2人の弟を残して。これほどの不幸があっていいものか。
だが運命はさらに苛酷な追い打ちをかけるのである。
残された田畑でなんとか弟たちを養っていこうと決意した彼は、親戚たちに手伝ってもらい、なんとか田植えをすることができた。ところがそこから1ヵ月もしない閏5月29日(太陰暦の当時は、約3年に一度、閏月を加えて1年を13ヵ月とし、季節のずれを調整した)の夜、またしても酒匂川が氾濫し、田植えの終わった田畑もろとも流し去り、最後の希望をも打ち砕いてしまうのだ。
二宮尊徳は後年、当時味わった度重なる不幸を振り返り、こう語っている。
〈幼年の困窮艱難実に心魂に徹し、骨髄に染み、今日猶忘るる事能はず〉(『二宮翁夜話』福住正兄著)
生家近くにある栢山神社(著者撮影/以下同様)
江戸時代というのは互助制度のしっかりした時代だった。「五人組」という隣保があり、相互扶助と治安維持に力を発揮した。この組織は戦時中、「隣組」として復活し、現在の自治会や民生委員のルーツとなっている。
金次郎のところのように困窮した者は、この五人組と親戚たちが相談して今後の方針を決める習わしだった。
話し合いの結果、幼い2人の弟は母の実家に預かってもらうことになった。母に焼香もさせてくれず死のきっかけともなったあの川久保家だ。そこに預けざるを得ないのは忸怩たるものがあったが、数え15歳でようやく成年になったばかりの金次郎にとって年長者の決定に逆らうすべなどない。
そして彼自身は伯父万兵衛の家に身を寄せることとなった。家財道具、衣類などもすべて売り払い、自宅は西栢山の人が買ってそちらに移築された。それらの売却代金は万兵衛に運用(利回し)を頼んだ。
万兵衛家は生家のすぐ南隣である。父親の実家でもあり、一番関係の深い親戚だ。彼が兄弟3人をすべて引き取ってくれれば離ればなれにならずにすんだはずだが、万兵衛には無理だったのだ。妻を亡くした直後で、彼の田畑もその多くが砂礫地になっていたからだ。
金次郎の家の田畑もあわせて収穫を増やしていけば、金次郎1人増えてもなんとか養っていけるという算段であった。
こうして、伯父といとこたちとの生活が始まる。
いつか生家を立て直し、弟たちを呼んで一緒に暮らすことが金次郎の目標となった。万兵衛もまた、折を見て利右衛門の家を継がせるつもりだった。
金次郎が油菜の種を蒔いて栽培した場所に立つ顕彰碑耕作以外に、毎朝毎晩の戸の開け閉め、水汲み、庭掃除、夜の行燈の用意など、やらねばならないことは山ほどあった。
それでも金次郎は、細々と学問を続けていた。それが心の支えだったと言っていい。
──行いて余力あれば、すなわち以て文を学ぶ。
後に『論語』学而編のこの一節を読んで思わず苦笑したが、昼夜こき使われている金次郎にとって〝余力〟を捻出するのは至難の業だった。
お昼の弁当の時間でも、小作人たちが湯をわかしてお茶を入れ、ゆっくり食べるのをよそ目に、金次郎は冷飯に水をかけてかき込み、あいた時間で本を開いた。柴刈りの行き帰りには、今まで通り暗唱することを忘れなかった。
夜も寝る時間を節約し、行燈の明かりで書を読んだ。行燈は1ワット強の明るさでしかないが、それでも油1升で米2升が買えたというほど油は貴重なものだ。
そのため万兵衛は、金次郎が夜、本を読むのを嫌った。行燈は、暗くなってから農機具の手入れや草鞋編みなどをするためのものであり、本を読むなどというのは無駄でしかないというのである。
「早く寝ろ!」
そう言って叱られるのが常であった。
万兵衛は、あのお人好しだった利右衛門の兄である。決して悪い人ではない。彼からすれば金次郎が早く一人前になるよう厳しく育てただけだろうが、それは父母を失って傷ついた金次郎にとって、ことのほか辛いものであった。
夜、行燈の明かりで本を読んでいるときの利右衛門は実に楽しそうで、自分も本が読めるようになってくると、父親の気持がよくわかった。それを禁じられるのは、自分の父親が否定されるようで何とも切なかった。
光が漏れないよう工夫もしたが、どうしても見つかってしまい、小言を食う。諦めきれない金次郎は策を講じた。
享和3(1803)年の秋、16際になったばかりの時、5勺(約90㏄)ほどの菜種を分けてもらい、仙了川の堤に接する砂地に蒔いたのだ。
それが育つのを見るのがどれほど楽しみであったかしれない。翌年の春、7升(12.6リットル)ほどの菜種を得ると小躍りするようにして、隣村の油商嘉右衛門のところで製油してもらった。
これで行燈の油は確保した。
万兵衛に事情を話し、
「お前の燈油で読むのであれば……」
と了解してもらったが、お互いなんとなく気まずい思いが残った。
(早くこの家から出ていこう)
そう決意を新たにするのだった。
農家の一大行事はなんと言っても田植えである。
例年この時期になると周囲の村人の協力も得て、苗代で育てた苗を、田植え歌を歌いながらリズミカルに植えていく。農作業でありながら一種のレクリエーションであり、人々の表情も明るい。
だが金次郎は田植えの際に出る「捨て苗」のことがいつも気になっていた。
(もったいない……)
稲は間隔を狭めて植えるとかえって収穫量が減ってしまう。少し苗が余るくらいの数を苗代で作るのが合理的だったのだが、余った苗をどうにかできないかと考えた。
そこで彼は洪水で使用不能になっていた用水路を掻きならし、捨て苗を集めて試しに植えてみた。するとそこそこの実りが得られ、米1俵分ほど(約60キロ)の収穫を得た。
先述の菜種もそうだが、小さいことでも積み重ねていけば大きな収穫をもたらす。
(小さいことの積み重ねを馬鹿にしてはならない)
しみじみそう感じた。
こうして金次郎は「積小為大」(小さいことを積み重ねていけば大きくなる)に開眼した。この言葉は二宮尊徳の教訓として人口に膾炙している。これこそが彼の成功の第一歩だった。
〈大事を成さんと欲する者は、まず小事を務むべし。大事を成さんと欲して小事を怠り、その成り難きを憂いて、成り易きを務めざる者は、小人の常なり。それ小を積めば大となる〉(『二宮翁夜話』福住正兄著
田原善栄寺内にある「少年勉学の像」。「積小為大」の文字が刻まれている金次郎は菜種を油にした際、一部は売って金に換えた。
この時、彼が買ったのは筆と硯、そして『算書』であった。和算についての書物である。本好きの彼が人生で初めて自分の金で買った本であった。金次郎は計算に明るく、加減乗除は勿論、複利計算などもできたと言われている。若くして、そうしたことの重要性を理解していた証拠と言えるだろう。
そのほかにも若い頃の金次郎の聡明さについては数多くのエピソードが残されている。
彼が満12歳頃、珍しく時間が出来た彼は隣村の飯泉村の勝福寺(別名飯泉観音)に参詣し、観音堂で座禅していた。曾我兄弟が日参して敵討ちを成就させたことで知られる寺である。
するとそこに旅の僧があらわれ、お経を読み始めた。
静謐な境地に入っている金次郎の心に、その経の内容は驚くほど素直に染み入っていき、心洗われる思いがした。
感動した彼がその僧に、
「それは何のお経でございましょう?」
と尋ねると『観音経』だという。
そこで僧にお布施を渡し、もう一度唱えてもらった。今度はさらに内容がよく分かった。
嬉しくなった金次郎は、栢山村に戻って菩提寺である善栄寺の住職に会い、『観音経』の功徳がいかに広大無辺なものであるか目をキラキラさせながら熱心に語ったという。
住職は、彼の理解の深さにいたく驚かされた。金次郎の思考は形あるもののみならず、哲学的な形而上の世界にまで広がりだしていたのである。
〈「観」とは目で見るという字ではない。心眼で見るという字だ。よくよく考えるがよい〉
(『二宮翁夜話』福住正兄著)
文化元(1804)年、満17歳になったのを機に、彼は万兵衛のところを出て、元の屋敷跡に掘っ立て小屋を建てて住み始める。
その上で名主である岡部伊助のところで働き出した。
金次郎は気づいたのだ。万兵衛は親戚である。そこで一生懸命働いても、それは万兵衛家の収入にしかならず、生家の再興はおぼつかない。他家で働けば、余った時間でその家の田畑以外も作ることができる。実際彼は、岡部家に奉公しながら余耕の5俵を得た。
翌文化2(1805)年には親戚である二宮七左衛門のところに住み込み、廃田復旧を進め、余耕の20俵を得た。
彼はまさに、積小為大を実行に移し始めたのだ。
この頃から金次郎は日記と覚え書きを兼ねた記録(『日記万覚帳』)を書き始め、晩年まで50年ほど書き続けている。彼の行動の多くが、これによって今に伝わっているのである。
文化3(1806)年、金次郎は他家で働いた給金を貯めて父が質入していた田地を3両2分で1反(10アール)に20歩足りない9畝10歩だけ請け戻した。後に彼はこの田地請け戻しを〝開運の始まり〟だったと語っている(『二宮尊徳』大藤修著)。
生家を再興するべく必死に頑張っていた金次郎のもとに悲しい報せが届く。
文化4(1807)年、川久保家に預かってもらっていた富次郎が息を引き取ったというのだ。まだ7歳という幼さであった。
(早く引き取りに行ってやれば、こんなことには……。母上がご存命なら、どれほど悲しがられたことだろう)
申し訳ない思いで一杯になり、富次郎の分まで懸命に生きようと心に誓った。
この頃、川久保家に一人残され不安な日々を送っていた友吉から、窮状を訴える手紙が送られてきた。服を買う金さえなかったようだ。
〈近くの友人が奉公で3両を得たと聞きました。川久保家でずっと無給で働いておりますが、他家に出れば同じくらい稼げるものと考えます〉
手紙にはそう綴られていた。
だが友吉は金次郎と違い、まだ働けない頃から養ってもらった恩がある。金次郎は彼に、いかに苦しくともしばらくは川久保家の人々の恩に報いることを優先するようにと諭している。その上で、2分(1両、現在価値で約30万円)の金を貸すのでそれで山林を買い、山で伐採した薪を売って金に換えるようにと添えた。
一時の生活費を渡すのではなく、友吉が自活できるよう導いたのだ。
その後も金次郎は田地を請け戻していた。請け戻した田地は小作に出し、砂礫地のままの場所を開墾し、捨て苗を集めては植えた。荒れ地の開墾は〝鍬下年季〟といって、田畑にしても3年から5年は無税であったからやる気も出た。
金次郎は米を売った金を決して遊ばせておかなかった。困っている人に利子をつけて貸し、少しでも増やす努力をした。父利右衛門の貸した金が返ってこなかったことを覚えているから、しっかり証文を書き利子を定め、返してくれるあてのあるところに貸し出すことを忘れなかった。そして金が貯まるとまた田地を請け戻していった。
利右衛門の代には2町3反2畝22歩あった田畑は、金次郎が相続した時には7反5畝29歩にまで減っていたが、文化7(1810)年には倍近い1町4反5畝25歩(1.46ヘクタール)にまで回復させることができた。
これまでの日々はただ生きるのに必死であったが、ようやくわずかながら生活に余裕が出てきた。金次郎は決して倹約一辺倒で禁欲的な生活をよしとしていたわけではない。見聞を広めることの大切さも痛感していた。
そんな彼は一念発起し、文化7年6月28日から7月2日にかけて富士登山を行っている。10月には江戸見物に出かけ、11月には伊勢参りを行い、京都、大坂、金比羅宮、高野山、吉野、奈良にまで足を伸ばした。
当時は数えで15歳からが成人である。成人になったのを機に伊勢参りに行く者も多かった。だが金次郎が成人したのは、ちょうどあの神楽が来ても12文が払えなかった正月のことである。伊勢参りなど考え及びもしなかった。
そしてあっという間に、もう数えで24歳(富士登山の時点では満22歳)になってしまった。遅くなったが〝自分へのご褒美〟と成人の祝いを兼ねての旅行だったと思われる。
旅から戻るとすぐにまた精を出して働いた。
買い戻していた自宅の改修を行い、新築同然にした。兄弟3人が再び一緒に暮らすという夢はかなわなかったが、まさに生家再興の完成であった。
彼の美徳は、自分が決して恵まれた環境になかったにもかかわらず、絶えず周囲の幸せを願い、少しでも余裕ができると自分のことを二の次にして懸命に助けようと心がけたことである。
この頃、母の実家の川久保家が逼塞しかかっていた。すると彼はこれを支えてやろうとする。母親のことで一時恨みもしたが、その後、弟たちの面倒を見てくれた恩返しでもあった。負の感情を引きずらないのもまた、金次郎の美徳の1つであった。
金次郎の生家近辺からは遠くに富士山が望める
二宮金次郎という人物は学問のみならず、文化的な修養も人格の陶冶に大切であることを理解していた。
意外なことに、芝居や相撲見物や花見にも行っているし、生け花や小笠原流の礼法を学び、謡曲も習っていた。
中でも力を入れていたのが俳諧(今で言う俳句)である。
金次郎より100年以上前の人である松尾芭蕉の登場により、俳諧連歌は全国に広まり、識字率の高さにも支えられ、庶民階級にもたしなむ者が多かった。小田原で有力だったのが、蕉門四哲の一人服部嵐雪を祖とする雪中庵派(雪門)だった。雪中庵とは嵐雪の別号である。
小田原に近い井細田村など各地の句会に参加し、次のような句が残されている。
──雉鳴くや七里並木の右左
──蝶々や日和動きて草のうえ
──落ち角や枯れいたどりの孤独勺
彼は後に自分の教えを「道歌(訓戒を短歌形式で託したもの)」として多く残している。古今東西を問わず、指導者は言葉に力を持たせねばならない。俳句を学んだことは、こうした文字表現の研鑽に大いに役立ったはずである。
彼の俳号は「山雪」である。それは小田原周辺の山々の雪でもあったろうが、何より霊峰富士の高嶺に積もる雪ではなかったか。
彼は絶えず、さらなる高みを目指していたのである。
作家 北 康利
…と言うことで、「ハリツケ」こんな楽ちんして良いのだろうか…<(_ _)>おわり
———————————————————————————–
ここからは6月11日の早朝分です
…愛犬の散歩道…過日、今年のアジサイは特に輝きが良いように思えましたので、撮ってもみましたが、既に美しさのピークは過ぎておりました…季節の移ろいは足早ですね…
ご来店予約と、メールでのご質問もこちらから
不動産査定AIが即査定額をお答えします無料
※30秒査定は物件データベースを元に自動で価格を計算し、ネットで瞬時に査定結果を表示させるシステムです。